4月29日、日比谷公会堂で「水俣病—新たな50年のためにー」という講演会がありました。今から50年前の1956年5月1日、水俣保健所に原因不明の中枢神経症患者が発生、水俣病患者第1号と公式認定されました。講演会は、その長く厳しい水俣の経験を過去のものとするのではなく、更に次の50年にどのように引き継ぐかを考えるものでした。
当日講演会前には、皇居周辺に建つ環境省・旧東京地裁跡・丸の内警察署・急チッソ本社入居ビル跡を、水俣病患者の皆さんの先導で歩む、という叢想行列が行われました。
参加者は不知火海の色の帯布を肩にかけ、不知火海の塩を持ち、静かに歩み続けました。
先導人の一人、緒方正人さんは数年前「私がチッソであった」(葦書房)という衝撃的なタイトルの本を著しています。本の帯には「今や社会のすべてがチッソ化している。加害者責任を問う水俣病から自らの責任が問われるどんでん返しが起きた。水俣病の怨念から解き放たれた瞬間でもあった。」とありますが、私自身、この本を読んだときの、自分の中で何かが突き動かされた感覚が未だに残っています。
午後の講演者の一人、田口ランディさんは、『水俣を知るたびにチッソへの、国への怒りがこみ上げてくる。それを一体何処にぶつければいいのか分からない。そんな気持ちの処理に困るから、これまであまりこのような運動にはかかわらないようにした。でも水俣で緒方さんや杉本さんは、穏やかに「水俣病はのさり(天災)だよ」と言ってくれる。あの穏やかさは何処からくるのか』と語っていました。
その杉本さんは、舞台に並ぶ500近くの遺影を眺めながら、その亡くなられた患者の皆さんと今ここにいる私たちとの接点を静かに話し始めました。その瞬間ここが不知火の青い海のようにさえ思えました。
ある人が、水俣での活動はあらゆる市民運動の原点のようなところがある、といっていたことがありますが、日比谷公会堂を埋めた多くの人が、自分の意思で参加した個人個人であることは、その意味を改めて実感させるものでした。
私自身、新たな50年への1歩を踏み出した心地よい一日でした。
緒方さんの本は是非読んでください。数年前、府中の中央図書館で検索した時には、閉庫にあって出してきてもらった覚えがあります。