今回の調査で最大の発見は、府中で学童疎開を受け入れていたことです。昭和19年政府は本土決戦に備え、都市部の児童の地方への疎開を決定しました。最初は親戚をたよっての縁故疎開だったのですが、6月には集団での疎開を決定、府中は赤坂区乃木国民学校245名の疎開先になったのです。同じ東京の中での疎開で大丈夫なのか、という気がしますが、三多摩全体で7,347人を受け入れています。疎開児童は昔の多摩村、府中町の6つのお寺と1つの会社の寮に学年ごとに分かれ、出入りもありましたが終戦までいたそうです。
その1つ、分梅の光明寺には6年生の女子33名がやってきました。その当時のことを知っている現在のご住職のお母様(90歳)にお話を聞くことができました。子供たちは本堂で寝泊りをしながら勉強をし、近くの農家にもらい湯にいっていたそうです。食事は近くの料理屋の人を頼み、本堂の玄関脇に作った台所で作っていたそうですが、食べ物には苦労していたようでした。今でも時々その疎開児だった方たちが、何人か訪ねてくるそうです。
その当時の新聞を図書館のマイクロフィルムで調べてみましたが、親の面会は1ヶ月に1回で、食べ物を持っていくなとか、さびしいというなとか、やたらと禁止項目がならんでいました。また個人負担が1ヶ月10円だったことから、経済的に出せないとか、布団の用意ができないがどうすればいいかとか、夜尿症がひどい時は疎開しなくてもいいようにしてほしいなど、それぞれの悩みがあったようです。
この学童疎開も表向きは子供たちを守るためと言われていますが、本当は子供は本土決戦で足手まといになるからと東京都長官は発言しています。
平和まつりで掩体壕の保存活動をしている市民グループの方から、掩体壕が作られたのも昭和19年6月ごろからで、最後の本土決戦に備え迎撃用の飛行機を隠すためだったとお聞きして、上層部は本気で国民を巻き込んでの本土決戦準備をしていたようです。
今回はあまり深く調査できませんでしたが、これをきっかけに身の回りから戦争を調べ、考えてみたいと思っています。何か情報があればお寄せ下さい。
60年前、戦時中の府中を調べる その2
・・・前回のつづきです・・・