60年前、戦時中の府中を調べる

衆議院選挙期間中はホームページを変更することができず、9月のホームページをやっと更新しました。
その衆議院選当日、府中公園で「平和まつり」がおこなわれました。
この「平和まつり」は、市民団体が中心になって実行委員会を作り、それぞれの思いをこめた平和を訴え続け、今年で16回になります。
このところ、参加団体が減ってきて少しさびしくなりましたが、今年はお天気もまあまあ(いつもこの時期は台風に当たることが多いのです)でほどほどの出足でした。
ネットは戦後60年の節目の年でもあり、60年前の府中を調べて展示しました。
戦時中の府中には日本製鋼所や東芝、日本小型飛行機などいくつかの軍需工場もありましたが、周辺の立川や三鷹に比べると、大きな爆撃は受けませんでした。
ですから、形として戦跡が残っているところは少なく、調布飛行場近くの白糸台に掩体壕(飛行機を隠しておく格納施設)が残っている位です。
ただ、形が変わって残っているところもあります。
まず、自衛隊府中基地は陸軍の燃料廠だったところです。昭和15年に開設し、最初は石炭などから飛行機用燃料を作る研究をしていましたが、物資が乏しくなった昭和19年ごろは松脂や松の根から燃料をとるようになったそうです。これには府中の住民も動員され、青年学校の学事報告書にも松根割作業や松脂採取壷設置作業奉仕に出たことが記録されています。
また、それまで多摩川の砂利輸送のために引かれていた下河原線に、燃料廠や軍需工場への物資輸送のために、引込み線が作られました。そのひとつは刑務所にも引き込まれ、軍需品の修理などが行われたそうです。燃料廠への引き込み線はもうありませんが、その跡が現在の富士見通りです。下河原線は戦後しばらくありましたが、武蔵野線の開通により廃線となりました。(鉄道マニアのホームページにはこのことが詳しく出ています)

・・・次回へつづきます・・・

次回のホームページでは、府中への学童疎開について、お伝えします。