4月中旬の日曜日、五日市を歩いてきました。
目的は「五日市憲法の地を訪ねる」というとアカデミックですが、運動不足解消とお花見も兼ねて、と言ったところでしょうか。
2ヶ月ほど前、「明治初期、憲法を制定するにあたり、日本各地でさまざまな人たちによって、憲法の草案作りが盛んに行われた。その中でも五日市で作られた草案は、議論の経過も分かる資料が発見されたことも貴重であり、その内容も国民の権利保障や女性天皇を認めるなど今の憲法以上にすすんだ点もある。なぜその時代にそれも五日市で、このような憲法草案が考えられたのか、憲法問題が取りざたされている今、改めて考えたい」というような内容で学習会のお誘いが舞い込みました。憲法問題への近づき方に迷っている私としては、またとない機会と早速参加しました。
会の内容については、また別の機会に紹介しますが、前回の集まりで「とりあえず五日市に行って同じ空気を吸ってこよう!」と今回の五日市行きになりました。
JR五日市駅から西北に山際をいくこと1時間弱で、草案作りの中心的存在の千葉卓三郎のパトロン的存在であった「宮澤家」跡です。現在は草案原稿や関連資料が見つかった蔵だけが東京都教育委員会の手で修復され残っています。住居跡の周りの山桜がちょうど満開で、風が吹くたびに花びらが舞いおり、その下で講師役の伊藤さん(東京経済大の色川教室の方)から第2章の「国民の権利」について話を聞きました。
江戸明治期における五日市は、江戸を一大消費地とする木材供給で潤い、宮澤家も多くの山を持っていたことから、経済的にもまた地域においてもリーダー的存在だったようです。
また明治になると、横浜が貿易港として開かれ、養蚕が盛んだった五日市からも八王子の絹の道を通って絹が運ばれ、また横浜からは新しい情報や書物が入ってきました。
おそらく、その中にヨーロッパやアメリカの憲法や人権思想について書かれたものがあったのでしょうが、どのようにしてそれを自分たちが実感のもてる言葉に置き換えて言ったのか、興味が尽きないところです。千葉卓三郎は16歳で参加した戊辰戦争では賊軍となり、さまざまな師を求めて放浪し、投獄されたこともあり、その後20代半ばで憲法草案作りに関っているのですが、その権力への不審感や経験が草案作りにも反映しているのではないか、との話がありました。
草案の完成に前後して千葉は結核に倒れ、29歳で亡くなっています。
時代が人を生み出すといいますが、宮澤家には千葉を中心として多くの在の人が集まり、新しい時代への議論をし、憲法草案を作り上げて行ったとのことです。
おそらく、今の時代の私たちより、彼らは憲法を自分たちのものとして、ずっと身近に感じていたのかもしれません。帰り道、すれ違った地元の人に「宮澤家跡」に行ってきたというと、「なんにもないところに・・・」と不思議そうにしていました。
きっと千葉の時代も、熱い想いで憲法議論をしたのは、ごく一部の人だったのでしょう。