水俣から ①

 4月15日から2泊3日で熊本県水俣市へ、ネットのメンバーも含め6名で会派視察に行ってきました。水俣市は熊本県の南に位置し、すぐ隣は鹿児島県です。鹿児島空港を利用すると、羽田から4時間弱でした。

 水俣はチッソの工場廃水を原因とする有機水銀により、多くの犠牲者が出たところです。水俣病の公式認定から52年が経った今、水俣市は環境先進都市として世界でも注目されています。今回の視察では、改めて水俣病のことを考え、その後の水俣市の再生(もやいなおし)や環境政策(特に22分別のごみ施策)の視察が目的でした。

 水俣は不知火海の豊かな水産資源と、丁寧に開墾された棚田や山林など、日本の漁村と山村の風景を併せ持った豊かな地域です。その水俣に「日本窒素肥料株式会社」(チッソの前身)の工場が出来たのが100年前、それ以降水俣の歴史は一変し、水俣は日本の国の
近代化を凝縮したような状況を生み出すことになります。水俣はチッソの城下町として繁栄を続け、特に戦後は日本の工業化の先端を担うように工場は拡大し続け、塩ビの可塑剤であるアセトアルデヒドを作る過程で発生する有機水銀が工場廃水と共に水俣川に流し続
けられました。

 着いた翌日、朝9時に水俣駅でガイドをお願いした西田弘志さんと落ち合い、水俣湾に堆積した有機水銀を封じ込めた埋立地に向かいました。西田さんは市議会議員で、「水俣環境ガイド」としても活動しています。工場からの排水が止められた後も、水銀に汚染されヘドロの処理はおおきな課題でした。国が取った手段は13年間かけて485億円を投じて、全てを埋めてしまうという方法でした。私たちが立った埋立地の下には、漁に出ても売ることが出来ない魚をドラム缶に詰めて埋め立てられている、と西田さんは説明してくれました。埋立地の先端の海が望めるところに建つ慰霊碑の回りには、魚やヒトデ、貝などのテラコッタが置かれ、その命も慰霊されていました。

 この埋め立てについても、当時賛否の意見があり、また仕切りに使われている円筒状の鋼矢板も、耐用年数は50年といわれているため、今後どうするのかは大きな課題だといいます。埋立地には実生から育てられた樹木が育ち、いつかはこの埋立地を森にする構想もあると聞きました。埋立地の一角に建つ水俣病資料館で、西田さんが「自分たちが若い頃には水俣病のことを口にするのはタブーのようなところがあった。今は子どもたちは学校の授業で何回か水俣病について学ぶが、大人の方が知らない。自分も資料館で勉強したし、地元を離れた人が帰省したときに勉強にくることも増えてきた」と話してくれました。
その当時の水俣の空気が感じられる言葉でした。