中国残留邦人のこと②

 以前に残留邦人問題についてお話を聞いた鈴木則子さんから「作家の井出孫六さんが中国残留邦人の本を出したのを機にお話をしていただく」とのお誘いがあり、行ってきました。
場所は調布市西つつじヶ丘にある延浄寺というお寺です。その敷地内には昨年暮れ、鈴木さんの「国に従って国に棄てられた人々を忘れず、ふたたび同じ道を進まぬための道しるべに」という言葉を記した「不忘の碑」が建立されています。普段あまり足を踏み入れることのないお寺の堂内は、このお話を聞くのにはふさわしい場所にも思われ、100人以上の人で埋められました。

井出孫六さんがこのことに関心をもったのは、1965年のまだ中国との国交正常化以前、中国側が若い報道記者10名を招いたことがあり、その一員として行った東北地方のまちで、自分たちの乗った汽車を見送る若い女性の「ごきげんよう、さようなら」という声がずっと心に残っていたからだそうです。またご自身の出身地である長野県は満蒙開拓団を多く送り出した県で、で身近な人も中国に渡り、消息がなくなっていたことや、先輩の水上勉氏に「信州の新聞に残留婦人のことが出ていたから調べたらどうか」と言われたことがあり、それから満蒙開拓団や孤児のことを調べ始め20年以上になると話されました。
 
満蒙開拓団は満州事変が起こった1931年の翌年、満蒙開拓の試験移民計画が帝国議会の承認を得て進められ、試験移民500人は武器を携えて入植、しかし現地のパルチザンに襲われる悲惨な状態だったが、日本にはそのことは伝えられず、さらに1936年には500万人の農民に1000万町歩の畑を用意したとして(現地の農民を追い出してのものだった)満州に送り出す計画が帝国議会で通り、まさに不況対策としての国策だったことは明らかだったといいます。この論は全国各地で起こされた国家賠償請求の裁判で、井出さん自身が原告証人として立ち、神戸の裁判を勝訴に持ち込む大きな原動力になっています。

1972年の国交回復後も戦後処理に対する政府の不策は続き、今日に至っています。この4月からの新しい救済制度もまだ不十分であることは以前にも書きましたが、井出さんのお話を聞きながら、国の不策は何度繰り返されるのだろうと思いました。

また、国の不策ということについては、来週から行く水俣のことを思わずにはいられませんでした。まさにそのことを指摘しているのが水俣病50年を機にもたれた「水俣病問題に係る懇談会」提言で、作家の柳田邦男氏らによるその文章は、国・行政の「不作為」責任を鋭く指摘し、これからの行政のあり方として「2.5人称の視点」を持つことを提言しており、このことについては場を改めて書きたいと思います。
国とは何かを考えさせられる集会でした。